焦げたバターと、かすかに甘いカラメルの匂い。重い木の扉を押した瞬間、ボクの鼻がひくついた。
神保町の路地裏。人間たちがスマホ片手に素通りしていく一本裏の細道に、その喫茶店はあった。
ビロードの椅子は、猫を知っている

足を踏み入れて最初に感じたのは、床のやわらかさだった。木の板が長い年月で少しだけたわんでいる。絨毯の毛足が肉球に心地いい。
店内は薄暗い。窓から差す西日が、煙草の煙を金色に染めていた時代の名残がある。今はもう煙はない。でもビロードの深紅の椅子には、何千人もの背中の温もりが染みついている。
若い人間たちが、二人、三人と座っていた。驚いたのは、誰もスマホを見ていないこと。銅のランプの下で、ただコーヒーを待っている。
クリームソーダの青は、空の色だった

隣のテーブルに運ばれてきたクリームソーダを、思わず目で追った。銀の脚付きグラス。メロンソーダの緑というより、どこか青みがかっている。その上に白いアイスが浮かんでいる。
「これ、映えるから来たんじゃないんです」
隣の女性が、連れに話していた。
「おばあちゃんちの近くにあった喫茶店、こういう感じだったの。もうなくなっちゃったけど」
ボクは耳だけ傾けて、自分のホットミルク(350円)をなめた。舌がやけどしそうなほど熱い。猫舌なのに頼んでしまった。
ナポリタンは、なぜか懐かしい味がする

鉄板の上でじゅうじゅう音を立てるナポリタン(850円)。ケチャップの甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。卵の薄焼きが敷いてあって、その端がカリカリに焦げている。
フォークを持つ若者の手が、一瞬止まった。匂いを嗅いでいる。味わう前に、匂いで何かを思い出そうとしている。
昭和レトロ喫茶には、記憶の匂いがある。行ったことがなくても、なぜか懐かしい。祖父母の家の、あの感じ。黒電話。振り子時計。レースのカーテン。
若者たちは「映え」を求めてここに来るのだと思っていた。でも違った。彼らは、スマホの画面の中にはない「質感」を探しているのだ。
喫茶店は、時間の流れが違う

昭和レトロ喫茶の魅力は、時間の遅さにある。注文してから出てくるまで10分。コーヒーを飲み終わるまで30分。誰も急かさない。
節約なら純喫茶のブレンドコーヒー(400〜500円)とトースト(300円前後)で800円ほど。ちょっと贅沢するならナポリタンやプリンを足して1,500円。
名古屋ならコメダ珈琲のような喫茶文化が根付いているし、大阪の純喫茶アメリカンはサンドイッチが絶品だと聞く。東京なら神保町、浅草、銀座に老舗が点在している。
どの店も、Wi-Fiがないことが多い。電源もない。それがいい。
西日が傾いてきた

窓際の席で毛づくろいをしていたら、いつの間にか2時間が経っていた。
店を出るとき、マスターが小さく頭を下げた。ボクも尻尾の先だけ揺らして応えた。
路地裏に夕闘の匂いが満ちていた。また、どこかの街の喫茶店で会おう。
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